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▼大谷 白山神社由緒

大谷 白山神社由緒/
旧村社 白山神社 由緒

鎮座地 西村山郡朝日町大谷七三八ー一
祭神  菊理姫命 伊邪那岐命 伊邪那美命 与茂津言解之男命
境内社 稲荷社  末社 日月社(船渡)
例祭  七月十七日

 大谷の白山神社は承和七年(八四〇)、加賀の国(石川県)の白山大権現より勧請し、天喜年中(一〇五三〜一〇五七)に源頼義が武運長久を祈願したと伝わる。昔からいくさの神として領主の崇敬厚く、特に寒河江の大江氏や山形城主の最上氏より十九石四斗余の社領を寄進され、さらに慶安二年(一六四九)徳川三代将軍家光より、石高同じく、朱印状(徳川将軍が朱印を押して発行した公文書)をもって安堵されたのである。
 宝永四年(一七〇七)近郷九か村(大谷、大暮山、川通、栗木沢、船渡、左中、粧坂、中沢、富沢)の総鎮守として、各村々から寄進を受け、白山神社を再建した記録が残っている。
江戸時代、白山神社の西側朱印地に寺を建て白山寺と称し、真言宗寒河江惣持寺の末寺となったが、天保時代(一八三〇〜一八四三)に廃寺となり、跡地は畑になったといわれている。この場所に明治十二年(一八七九)大谷小学校が初めて建設されたのである。
 明治七年官令により村内の御朱印社であった天満宮、八幡神社、愛宕神社、北野天神社、若宮八幡神社、二渡宮、日光神社を白山神社に合祀。
 もとの白山神社は、旧大谷小学校の東側にあり、境内は広く、モミの木や杉、かえで、桜などの大木が茂り、千百年余の間、氏神として親しまれてきたのであった。しかし、終戦後、昭和二十一年(一九四六)五月、進駐軍(GHQ)より、大谷小学校と隣接する白山神社を教育施設より切り離すよう命令され、止むなく社殿を解体、恩賜郷倉(非常時の米倉)に一時保管。昭和二十五年(一九五〇)八月三十日、現在地に茅葺き屋根を銅板葺に変え昔のままの立派な社殿を再建したのである。当日深夜、松明の先導で別当南蔵院(小野家)より新殿に遷宮したと伝えられている。跡地には、新制の大谷中学校が建設され、今も残るヒバの木は、白山神社本殿跡に植えられた記念樹である。

[白山神社の本地仏である十一面観世音菩薩座像(朝日町の文化財に指定)は別当家であった南蔵院(小野家)で所蔵している。]

宮司 豊 嶋 宏 行

編纂 堀敬太郎氏(令和五年)

大谷 白山神社

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